不眠症の理由 3

臨床医は実地に


「ちっとも眠れません、何とか眠れるようにしてほしい」


・・・と訴える患者さんを相手にした場合、その不眠症が第1(3)種か第2種かというおおよその判断をつけて対策を立てるのが賢明です。


それはこうした不眠の種類によって、治療法が根本的にちがうためですが、その見分け方の1番簡便な方法は、昼間の状態をくわしく訊ねることです。


その原理は簡単明瞭です。


つまりどうしても昼間にそれを埋め合わさねばなりません。


こうした人は、昼寝か、うたた寝が必要になります。


しかし、それを妨げられると精神的にも身体的にもいろんな変調を感じるでしょう。


(そのもっとも多い訴えは、睡気、ふらつき、頭重、感じがピンとこない、食欲不振、体重減少などです)。


ところが羽毛 布団 販売をしているある会社の調査によると、不眠症の患者さんのなかには、ひどい不眠を訴えるくせに、昼間はなんの支障もなく勤め、外見上は健康な人と少しも変わらない人々がいます。


不眠症の理由 2

労働科学研究所で調べたところによると、日本の大都会のサラリーマンの睡眠時間は1950年には500分、60年には480分、最近では460分というように・・・


ほぼ10年間に20分きざみで短くなっており、平均就床時刻は夜11時から12時に向かって次第に遅くなっているのです。


1966年のニューヨーク・タイムズ紙に「眠ることを夢みている米国人」を書いた記者は、


「ソ連の学者はやがて人間は1日2時間の睡眠で足りるようになる」


・・・と言っていますが、これは共産主義的人間の話でしょうか?


「共産主義社会だけが心の安定を果たし睡眠を保証するというわけか」と、「不眠の米国」から「熟睡のソ連」に対して素朴な疑問を発しています。


・・・こうした文明批評的な発言はさておき、医学的見地から見れば、文関に伴う不眠症の増加の理由は、3種の睡眠に分けて考えれば判りやすいでしょう。


文明の進歩・・・


スピード化、機械化、合理化は当然人間の心理面に深刻な影響をあたえ、まず第一に第ニ種の睡眠(心理的唾眠)が変化し、リズムを乱されます。


これはたとえ寝具が羽毛 フトンでも同じことです。


そしてさらに、たとえば夜勤生活、断続勤務や24時間で割り切れないスケジュールなどがひどくなると、第一種と第三種の睡眠(生理的、新陳代謝性睡眠)にも当然障害が及ぶでしょう。

不眠症の理由

統計によると、アメリカでは睡眠薬の売れ行きが重量にして3500トン、金額にして1億2千万ドルあったそうです。


あまり眠れないので、やけになって、マサチューセッツ州のある町では、住民が「不眠症コンクール」を盛大にやり、新記録をつくった人を表彰したというブラック・ユーモアめいた話まであります。


・・・しかし、これは決してアメリカだけの問題ではなく、日本でも既に数年前、睡眠剤の売上げが3億9000万円から5億円にのぼり、睡眠剤および睡眠作用を有するトランキライザーが554種も発売されているのです(薬局統計)。


・・・大むかしは晴耕雨読というように、人間の生活は自然のリズムに従順でした。


ところが文明が進むと共に、人間が自然を征服し、機械化、技術化が高度に達するほど、以前はやすやすと手に入った睡眠が非常に貴重なものになりました。


文化人類学者の報告によると、原始民族には元来不眠症はないですが、そこに白人が入ってきて生活が近代化すると共に、不眠者が現われてくるそうです。


不眠症には羽毛 ふとんが効果的だといわれています。


悩んでいる方は一度試してみてはいかがでしょうか。

ローマ社会の睡眠 4

彼岸に関しては、魂の不滅という考えは欠如していました。


エピクロス派は魂の不滅を信じていなかったですし、ストア派も同じでした。


・・・いってみれば、宗教がこうしたことに気を遣っていなかったのです。


民衆を含め、最も流布していた説というのは、死が虚無であり、眠りが永遠であるというものでした。


一部の小さな学派を除いては、亡魂が不滅であるという考えは作り事であるとされていました。


一般に受け入れられている教義のどれ一つとして、死には、死骸以外の何かがあるとは教えていなかったのです。


「個人の守護神」は存命中に重たくなりすぎており、支えることはできないとされていたのでした。


その反対に、葬式の典礼と墓造りの技術が、まったく人間的なものであるが、死の瞬間を先取りする不安を和らげるのに役立っていました。


そうした不安を本当に信じてはいないものの、こうすることで不安がぬぐい去られ、慰めの念が得られることを人々は評価していました。


羽毛 布団などの寝台で生まれ、寝台で生活し、寝台であちこち運ばれ、寝台の中で死ぬ・・・。


わたしたちにとって典型的なローマ人のイメージが、多岐にわたった人生を癒すべく左肘を支えにして寝台の上に横たわる死者のイメージであっても、なんら不思議はないのです。

ローマ社会の睡眠 3

ティベリゥス、あるいはメッサーナの放蕩について語るべきことは数多くありますが、夫婦生活についてのすばらしい話には事欠きません。


ギリシャの青年兵学校のいんぎんで熱情的な愛情の伝統をローマは受け入れずギリシャ的愛情に単なる心の高揚しかみなかったからです。


心を抱くローマ男性というのは、堕落し道徳的に隷属状態に陥ってしまった男です。


ローマ人たちは個人主義の変形を;しか知らなかったということをつけ加えておきましょう。


これは、法律を肯定するふりをしながら法律を堅固なものとして、秘かな悦楽である「精力的姦弱者」というパラドックスがこれにあたります。


これは、私生活における憎むべき軟弱な公共生活でのもっとも強力な精力とを結びつけるものです。


東洋羽毛工業がなかった時代の話とはいえ、ちょっと現代社会の発想からはかけ離れていますね。


ローマ社会の睡眠 2

男らしく快楽を楽しむこと、あるいは、盲従的に快楽を与えること、それが全てでした。


ポール・ヴェーヌがはっきりと示したように、ローマは、他の多くの町同様、「男性優位」の社会です。


女性は、男性に仕え、男性の欲望を待ち、悦びを持ち得るものならば1女性が悦びを感じることは道徳的に疑わしいことでした。


悦びを見いだす・・・。


この男らしさは、古代社会の政治という氷山の隠れた部分に根ざしています。


軍国主義的集団、あるいは、危険な環境のただなかにいると感じている開拓者集団にみられた「無気力さ」に対する嫌悪が、こうした男らしさを産みだしたのです。


(これに類似するものとして、排他的な開拓者や「猛者」の祖国であるアメリカ合衆国では、ある州で、最近クンニリングスやフェラチオが禁止されはしなかったでしょうか?)


ローマはまた、奴隷制度擁護の社会でもあり、主人が初夜権を行使しました。


その必然的結果として、必要が法をつくっていました。


「主人が命じることを行なうのに恥ずかしいことなどない」のです。


羽毛 掛け 布団がなかった時代のことだとはいえ、ちょっと考えられませんね。


ローマ社会の睡眠

ローマ社会は、他人がホモセクシュエルかどうかを問題にして暇をつぶすような杜会ではありませんでした。


この点に関しては、女性や少年の性器は、受身的な道具と見なされており、躊躇することなく金が渡されていました。


性行為のために金が支払われても、まともな既婚夫人や立派な青年は、自分が金で動かされたと考えたりはしなかったのです。


言い寄るということは、ローマでは、ある金額を差し出すことでした。


自由な男性が、奴隷や身分の低い男と結ぶ能動的な関係である限りは、男色はかわいらしい罪でしかなかったのです。


これにひきかえ、身繕い、言葉遣い、身振り、態度に関する些細な点には、並外れた注意が払われ、雄々しさに欠ける者は、その人物の性的好みがどうであれ、軽蔑をもって責めたてられました。


これは羽根 布団 通販のある現代社会においては考えられないことですが・・・

掛け布団の出現

「然ドモ昔ハ京坂モ用レ之欺」


・・・という表現は、守貞の周辺におよそそのような記憶の持ち主は生存しませんでした。


なればこそ、


「兀文等の古画に有レ之」


・・・とわざわざ根拠をあげて説いているわけでしょう。


こうした推定を裏づける史料として、昭和53年に出された大阪の海産物商助松家の古文書を集録した『助松屋文書』(近江晴子編)の史料があります。


この史料は、宝暦年間(175~163)のものと推定されています。


この入目録に蚊帳、桑枕、座蒲団と並んで記されているものがあるのです。


この目録は五代目の当主藤井武左衛門のものであることから宝暦年間と推定されているだけに、年代にはかなり信頼がもたれます。


そこに蒲団と敷蒲団が別書きされている以上、蒲団とあるのは掛蒲団の意味とうけとれます。


上方で、元禄以降の早い時期に羽根 布団のような掛蒲団を使う具体的な史料が見当たらないのは何といっても口惜しい思いです・・・。


とはいっても林氏のように一気に年代をおし下げてしまうのは少々いきすぎかと考えています。


さらに新たな史料の出現を私自身も期待しています。

夜着と寝具

もう一つは、文政9年(1826)刊の『色深狭睡夢』という人情本に、長四角の額蒲団で寝る風俗描写があるものが最も早い資料です。


それより古いものは見出せません。


そうしたところから嵐雪の句や『花屋日記』にフトンとあるのは敷蒲団をさしており、本来は下に敷く蒲団を上掛けに用いた情景を描写したものと解されます。


・・・氏の主張されるように、元禄頃に掛蒲団があらわれたにしては、幕末にいたるまでの間を埋める資料に乏しいのはたしかに不思議といえます。


したがってその点に関していえば氏の説にも説得力があります。


しかし、それならばなぜ『守貞漫稿』があのような文面をのこしたかが疑問になります。


内容を解読してみると「現在夜着を用いるのはおよそ遠州より東だけです。


三河から西、京坂方面は襟袖のある夜着というものを用いないのです。


だけれども昔は京坂でも之を用いていたようで、元文(1736~40)等の古画にはそれがあります。


喜多川守貞がこれを書いたのはおもに天保から嘉永の頃です。


文化7年(1810)大阪に生まれた守貞自身の経験はもちろんのこと、おそらく当時の古老たちも襟袖のついた高級 羽毛 布団のような夜着を知らなかったようですね。

浮世絵と布団

天保8年から嘉永6年(1837~53)にわたって書かれた『守貞漫稿』にはと記されています。


これによっていえば、元文(1736~40)頃まで京阪にも夜着を使う習慣がのこっていたそうです。


しかし、あとは全く掛ブトン(「五幅・布団」とあるのがこれにあたる)にとってかわられたということになります。


そのきざしがすでに胴元禄の頃にあったことを知るのです。


なお『守貞漫稿』には布団 羽毛のことを「大布団」として「敷布団」と区別する呼び名のあったことが示されています。


この大布団がさきに「五幅ノ布団」とあったものにあたることはいうまでもないでしょう。


・・・こうしてみると、嵐雪の句に「フトン着て寝る」とよまれたフトンとは、おそらく額仕立(鏡仕立)の五幅の大布団であり、それなればこそ京都の東山にみるようなフソワリとした寝姿がえられたことが理解されます。


・・・以上は私が主張している説ですが、これに有力な反論があらわれたので紹介しておきましょう。


浮世絵の研究家であり、また近世の時代考証家としても名高い林氏が『時代風俗考証事典』(1977年刊)の「夜着と蒲団」の項に、上にのべてきた話の内容をかなり詳しく引用されました。


その上で、嵐雪の句と『花屋日記』の文面だけで元禄頃から掛蒲団があらわれるとみるのは早計と主張されています。


氏の見聞にふれた限りでは、天保13年(1842)頃、七代目市川団十郎(白猿)が、京都で詠んだ狂句に


「ふとん着て寝たる寒さや東もの白猿」


・・・というのがあり、この句を記載した『世々の接木』という写本に


「江戸にては寝る時ふとんを用ひぬ也。」


・・・と注記しているものが一つあるのだそうです。