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オススメ アーカイブ

とりあえず睡眠・・・

というタイトルにしてみました。


何も思い浮かばなかったので・・・


とにかく、これからブログをはじめます。


タイトルからもわかるかと思いますが、わたしは三度の飯より睡眠というタイプです。


隙があったらとにかく寝る。


そんなわたしの生活や、睡眠についてのいろいろなことを書き綴っていこうと思ってます。


オススメのふとんや枕などの寝具なんかも紹介するつもりです。


とにかくベッドまわりを快適にすることを常に意識しているので、それ関連のものも。


快眠グッズも結構持っています。


眠るのって本当に気持ちいいですよね。


ではまた。

お布団の歴史って

布団にもなかなかの歴史があるものですね。


最近面白いことを知ったのでここで紹介したいと思います。


江戸時代にふとんが一般的に使われるようになったそうですが、それは遊郭が発祥の地だったそうです。


さて、遊郭というのは、郭(くるわ=曲輪)とよぶ、かこいとか水をたたえた濠をめぐらした一区画に遊女を集めた遊び場のことです。


「傾城町の外、傾城商業致すべからず」(元和3年・1617吉原条目)


・・・とあるような独占権があたえられると、一般世間とは切り離されたこの世界特有のしきたり、特に遊女を格づけする階級制度が固定してきました。


延宝6年(1678)に畠山箕山という好事家の書きのこした『色道大鏡』によると・・・


遊廓の女郎には太夫職・三八・天職・囲職・端女の五階級があり、きびしい階級の差別が定められていたようです。


遊女の階級はそのまま、遊料(ゆうりょう)と称する揚代(揚銭)にあらわれます。


『色道大鏡』に記された京都島原での遊料をあげると太夫職58匁、天職30匁、囲職18匁、端女11匁とあります。


60匁が1両、1両が大ざっぱに今の2万円くらいにあたるとしても、大した額ではないようにみえます。


しかし、じっさいは遊料(揚銭)だけで遊べるわけでなく、太夫を揚げて遊ぶとなると、茶屋への払いが40両、太夫への贈物30両など、総額100両ぐらいの用意は必要であったといいます。


これが普通の太夫を買う場合の相場。


一世の名妓とうたわれた京の吉野太夫とか大坂の夕霧太夫、江戸の高尾太夫などになると、とても現代の100万や200万の金ではおよびもつかない多額の費用が必要であったそうですよ。


超高級ですね。

『好色一代男』にみる布団の歴史

『好色一代男』をみてみます。


主人公世之介は、高尾太夫の女郎盛(ざか)りをみんとして、京都からはるばる江戸までの長い道中を重ねて訪問し、


「さて太夫は」と尋ねると、


「9月、10月の両月はもちろん、はや正月の約束までできています。


年内に御ひまとては1日もありませんから、今年は江戸で過ごされて、高尾を買うのは来春のことになされませ」


・・・との返答です。


さすがの世之介も、このたび使いすてるために用意してきた金1000両ではとてもおよび難いと歎息する、とあります。


もとより、これは小説の中での話ではあります。


しかし、世をときめく紀国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門の大尽(だいじん)遊びというのは、まことに1000両の金を梁のごとくに婆したものと愛てもいいでしょう。


そうした豪華な遊楽(ゆうらく)の里が遊郭なのでしたから、そこにこの世界特有の文化が生まれ育ってもおかしくはないですね。


さて、遊女の階級は、彼女の身につける衣装はもちろんのこと、いろいろの道具類や、遊女につき従うお付きの人員種類まで、いちいちきびしい差別を伴うものだったようです。


この格差をもっとも端的にあらわすものは「寝道具」特に敷ブトンでした。


一般的にいうと太夫は三ツ蒲団・天職はニツ蒲団・囲職は蒲団一枚の定まりだったようです。


つまり、敷きブトンの枚数が多いほど遊女の格が高かったというわけです。


ちなみに江戸ではこれらの傾城は、太夫・格子(こうし)・散茶(さんちゃ)とよばれ、その下が梅(うめ)茶・局(つぼね)とよばれたそうです。

女郎の階級に応じた寝具

『好色一代女』という小説もあります。


この主人公は、素姓のいいのを鼻にかけ、姿自慢して高くとまりすぎたのがおざわいして客足が遠のいてしまいました。


「窺かた持(もち)こたへず、一門内談(親族甫相談の上で)して天神(天職と同じ)におろしけるに、はや其日より引舟女郎(囲職の格式をもった太夫づきの女郎)もなく、寝道具も替りてふとんづたつになし、すゑずゑも腰をかがめず、様(さま)付けし人も殿(との)になり。


座付も上へはあげず(上座にはあげてくれない)、口おしき事是に幾度か」


・・・というかわりようであったとあります。


この主人公は、天神(天職)格下げされたのにこれほどくやしがっていたのですが、つぎには囲職におとされます。


・・・と、日の暮れるのをまち兼ねて「ひとつふとんの床(とこ)に入」り、という具合に万事が露骨になっていきます。


とはいっても、太夫・天職・囲職は総じて傾城(けいせい)とよばれる高級遊女であって、一般庶民の相手になるのはさらにその下に位する端女(はしおんな)でした。


ところがこの端女の中にも段階があって、揚代(あげだい)によって三匁取(さんもんどり)・二匁取・一匁取・五分取(ごふんどり)のよび名があったといいます。


『好色一代女』のヒロインがたどった転落のプロセスがそれなのです。


そのプロセスを語る挿話によると、この下級女郎のなかにも段階に応じた羽毛 布団などの寝具があったようです。

遊女の布団

『好色一代女』からぬきがきしてみると三匁取はさすがに鷹揚(おうよう)でした。


客があれば、禿(かむろ=下働きの幼女)が中紅(ちゅうもみ=中等の紅絹=もみ)の蒲団をとって、部屋ごしらえをしてくれます。


二匁取となるとそれを自分でしなければならなくなるのです。


一匁取になると、


「屏風の陰なる寝莚を取出し、ひそかに帯をはじめからときて、客のおもはくもかえり見ず、内(抱え主)からのいひ付の通り着物着替て、ふたのも(腰巻)とき掛てくろめ」


気のせく男に調子を合わせて首尾をすませる・・・といった具合になります。


五分取となると、


「自戸をさして、豊嶋莚(摂津豊島郡産のむしろ)のせまきを片手にして敷(しき)、足にて煙草盆をなをし、男引(ひき)こかして……」


といったすさまじさ。


このように端女になると、三匁取とこ匁取とはかろうじて中紅(ちゅうもみ)の蒲団ひとつをあたえられることがわかります。


一匁取は寝莚(ねむしろ)、五分取はさらに狭い寝莚(狭莚)といったぐあいに、寝道具にれきぜんとした差別のあったことがわかります。


今の時代ように、誰でも羽毛 ふとんを手に入れられる時代ではなかったのです。


遊廓の風俗は浮世絵風俗画の題材としてももてはやされたものです。


遊女の寝道具が三ツ蒲団、ニツ蒲団とはっきり見別けがつくように表現されるのは鈴木春信あたりからであり、以後の浮世絵版画あるいは浮世草子の挿絵には遊女の寝道具はしばしば登場してきます。


しかし、三ツ蒲団の全盛期は元禄期が頂点であるように思われます。


・・・以上は寝道具といっても、主として敷夜具の種類について記された史料でした。


『色道大鏡』の三職女郎装束之制法という項には、三職(太夫・天職・囲職)の寝道具一般について、もっと詳細な定事が書きとめられています。

封建社会の産物

このような規則を、いったい誰が、いつ制定したものか、またその規制がどの程度にゆきわたっていたものかはまだ充分に裏づけられていません。


しかし、少なくとも遊里の一廓にこのような定りがあったことは、一般世間の権力のおよばない、人間の心の解放が得られるはずの遊廓もまた、けっきょくは階級制度のやかましい封建社会の産物にほかならなかったことを物語っています。


ただこの世界では生まれながらの身分による階級ではなく、女の値打が物をいう階級であり、買う側の立場でいえば、金が物をいう階級であったところに大きな特色がありました。


さて、遊廓では女は金が目あて、男は女が目あてで取引きがなりたっています。


揚代は取引の実質にかかる最低必要料金ですが、それだけでは高級女郎は買えなかったのです。


ことに太夫を買うには千金を投じるかくこのいる例はさきにものべた通り。


しかし、太夫の方でも体面を保つためには、それ相応の入り用があったことも事実でしょう。


ちょっと時代がさがりますが、文化13年(1816)の序文のある『世事見聞録』をみてみると、遊女はもともと親や夫、あるいは家族のために何両・何十両の金を亡八から前借りしたそうです。


そして、その金のかたに身をあずけて働かされているわけなのです。


揚代がはいっても借りた本金(もときん)の返済にとりあげられてしまいます。


衣裳や羽毛 フトンなどの寝具を抱え主からあてがわれれば、それがまた借金の上積みになります。


このために、贈物とかいろいろの名目で客からの別途収入を計らねばならなかったのです。

布団をめぐった色と欲が渦巻く世界

高級遊女ともなれば、もちろん馴染みのお大尽(だいじん〉に無心して、寝具・衣類・装身具などを贈ってもらうことも多かったようです。


ことに夜具のごときは、これを贈られると積夜具(つみやぐ)・飾夜具(かざりやぐ)(42図)と称し、遊客の集まる時節にこれを飾って全盛ぶりをひけらかしたものだったそうです。


今だったら羽毛 布団 販売を買ってもらうようなものでしょうか。


・・・といっても「夜具の100両」はなかなかの大金です。


遊女もうかつにせびると、それで客との縁が切れては元も子もなくなってしまいます。


たのむ遊女もいたって慎重、いわゆる手練手管(てれんてくだ)をつくすことになります。


だまされた人へ三井は夜具を売り三井は呉服商越後屋の主人三井八郎右衛門。


遊女の口説にだまされた気の毒な人だと心に思いつつ、大金のかかった夜具を売るというわけです。


・・・以上はいずれも古川柳からのぬき書きですが、蒲団をめぐって色と欲との渦巻く遊里の姿が目に浮ぶようですね。

「フトン着て寝る」

京都を遊びに訪れた人が、必ず一度や二度は耳にする有名な句があります。


これは芭蕉の古参の弟子のひとり服部騰豊の作です。


嵐雪は宝永3年(1706)に没していますから、彼の晩年の作とみても元禄期(1688~1703)にこの句はできていたとみていいでしょう。


あの京都は東山のたたずまいが、フトンを着てねる姿のようだという、一見なんの特色もない発想のようにみえる句です。


しかし当時、「フトン着て」という表現に、当時としては新鮮なひびきがあったとみるべきでしょう。


近世に寝具としてのフトンが出現していらい、フトンとはシキブトンに限られ、カケブトンはいまだに現われてこなかったのです。


「夜着・蒲団」と対で呼ばれ、夜着は上掛(うわかけ)の夜具、蒲団は敷夜具ときまっていたものです。


そうした一般の常識をやぶったところに、この句の特色があったわけですね。


しかし、常識を破るといっても、全く世間に適用しない新造語をふりまわしても俳句にはなりません。


やはりこうした句の生まれる背景として、フトンを着て寝るという風俗が生まれつつあったと解されるでしょう。


フトンを着て寝るという以上は、上掛けのフトンがあっていいわけです。


これに関し符て思い出されるものとして、芭蕉の終焉を書きつづった『花屋日記』の元禄7年(1694)10月11日の条です。


一ツ蒲団を被って寝たのですから、これはシキブトンでなく、カケブトンと思われます。


この記事は大阪でのできごととみられますから、元禄7年には、一方で夜着・蒲団の風俗が関西から関東まで普及する傾向にあった反面、京阪の地ではすでにカケブトンがあらわれつつあったとみてとることができるでしょう。


さすがにまだ羽毛 布団 通販はなかったでしょうが・・・。

浮世絵と布団

天保8年から嘉永6年(1837~53)にわたって書かれた『守貞漫稿』にはと記されています。


これによっていえば、元文(1736~40)頃まで京阪にも夜着を使う習慣がのこっていたそうです。


しかし、あとは全く掛ブトン(「五幅・布団」とあるのがこれにあたる)にとってかわられたということになります。


そのきざしがすでに胴元禄の頃にあったことを知るのです。


なお『守貞漫稿』には布団 羽毛のことを「大布団」として「敷布団」と区別する呼び名のあったことが示されています。


この大布団がさきに「五幅ノ布団」とあったものにあたることはいうまでもないでしょう。


・・・こうしてみると、嵐雪の句に「フトン着て寝る」とよまれたフトンとは、おそらく額仕立(鏡仕立)の五幅の大布団であり、それなればこそ京都の東山にみるようなフソワリとした寝姿がえられたことが理解されます。


・・・以上は私が主張している説ですが、これに有力な反論があらわれたので紹介しておきましょう。


浮世絵の研究家であり、また近世の時代考証家としても名高い林氏が『時代風俗考証事典』(1977年刊)の「夜着と蒲団」の項に、上にのべてきた話の内容をかなり詳しく引用されました。


その上で、嵐雪の句と『花屋日記』の文面だけで元禄頃から掛蒲団があらわれるとみるのは早計と主張されています。


氏の見聞にふれた限りでは、天保13年(1842)頃、七代目市川団十郎(白猿)が、京都で詠んだ狂句に


「ふとん着て寝たる寒さや東もの白猿」


・・・というのがあり、この句を記載した『世々の接木』という写本に


「江戸にては寝る時ふとんを用ひぬ也。」


・・・と注記しているものが一つあるのだそうです。

夜着と寝具

もう一つは、文政9年(1826)刊の『色深狭睡夢』という人情本に、長四角の額蒲団で寝る風俗描写があるものが最も早い資料です。


それより古いものは見出せません。


そうしたところから嵐雪の句や『花屋日記』にフトンとあるのは敷蒲団をさしており、本来は下に敷く蒲団を上掛けに用いた情景を描写したものと解されます。


・・・氏の主張されるように、元禄頃に掛蒲団があらわれたにしては、幕末にいたるまでの間を埋める資料に乏しいのはたしかに不思議といえます。


したがってその点に関していえば氏の説にも説得力があります。


しかし、それならばなぜ『守貞漫稿』があのような文面をのこしたかが疑問になります。


内容を解読してみると「現在夜着を用いるのはおよそ遠州より東だけです。


三河から西、京坂方面は襟袖のある夜着というものを用いないのです。


だけれども昔は京坂でも之を用いていたようで、元文(1736~40)等の古画にはそれがあります。


喜多川守貞がこれを書いたのはおもに天保から嘉永の頃です。


文化7年(1810)大阪に生まれた守貞自身の経験はもちろんのこと、おそらく当時の古老たちも襟袖のついた高級 羽毛 布団のような夜着を知らなかったようですね。

掛け布団の出現

「然ドモ昔ハ京坂モ用レ之欺」


・・・という表現は、守貞の周辺におよそそのような記憶の持ち主は生存しませんでした。


なればこそ、


「兀文等の古画に有レ之」


・・・とわざわざ根拠をあげて説いているわけでしょう。


こうした推定を裏づける史料として、昭和53年に出された大阪の海産物商助松家の古文書を集録した『助松屋文書』(近江晴子編)の史料があります。


この史料は、宝暦年間(175~163)のものと推定されています。


この入目録に蚊帳、桑枕、座蒲団と並んで記されているものがあるのです。


この目録は五代目の当主藤井武左衛門のものであることから宝暦年間と推定されているだけに、年代にはかなり信頼がもたれます。


そこに蒲団と敷蒲団が別書きされている以上、蒲団とあるのは掛蒲団の意味とうけとれます。


上方で、元禄以降の早い時期に羽根 布団のような掛蒲団を使う具体的な史料が見当たらないのは何といっても口惜しい思いです・・・。


とはいっても林氏のように一気に年代をおし下げてしまうのは少々いきすぎかと考えています。


さらに新たな史料の出現を私自身も期待しています。

ローマ社会の睡眠

ローマ社会は、他人がホモセクシュエルかどうかを問題にして暇をつぶすような杜会ではありませんでした。


この点に関しては、女性や少年の性器は、受身的な道具と見なされており、躊躇することなく金が渡されていました。


性行為のために金が支払われても、まともな既婚夫人や立派な青年は、自分が金で動かされたと考えたりはしなかったのです。


言い寄るということは、ローマでは、ある金額を差し出すことでした。


自由な男性が、奴隷や身分の低い男と結ぶ能動的な関係である限りは、男色はかわいらしい罪でしかなかったのです。


これにひきかえ、身繕い、言葉遣い、身振り、態度に関する些細な点には、並外れた注意が払われ、雄々しさに欠ける者は、その人物の性的好みがどうであれ、軽蔑をもって責めたてられました。


これは羽根 布団 通販のある現代社会においては考えられないことですが・・・

ローマ社会の睡眠 2

男らしく快楽を楽しむこと、あるいは、盲従的に快楽を与えること、それが全てでした。


ポール・ヴェーヌがはっきりと示したように、ローマは、他の多くの町同様、「男性優位」の社会です。


女性は、男性に仕え、男性の欲望を待ち、悦びを持ち得るものならば1女性が悦びを感じることは道徳的に疑わしいことでした。


悦びを見いだす・・・。


この男らしさは、古代社会の政治という氷山の隠れた部分に根ざしています。


軍国主義的集団、あるいは、危険な環境のただなかにいると感じている開拓者集団にみられた「無気力さ」に対する嫌悪が、こうした男らしさを産みだしたのです。


(これに類似するものとして、排他的な開拓者や「猛者」の祖国であるアメリカ合衆国では、ある州で、最近クンニリングスやフェラチオが禁止されはしなかったでしょうか?)


ローマはまた、奴隷制度擁護の社会でもあり、主人が初夜権を行使しました。


その必然的結果として、必要が法をつくっていました。


「主人が命じることを行なうのに恥ずかしいことなどない」のです。


羽毛 掛け 布団がなかった時代のことだとはいえ、ちょっと考えられませんね。


ローマ社会の睡眠 3

ティベリゥス、あるいはメッサーナの放蕩について語るべきことは数多くありますが、夫婦生活についてのすばらしい話には事欠きません。


ギリシャの青年兵学校のいんぎんで熱情的な愛情の伝統をローマは受け入れずギリシャ的愛情に単なる心の高揚しかみなかったからです。


心を抱くローマ男性というのは、堕落し道徳的に隷属状態に陥ってしまった男です。


ローマ人たちは個人主義の変形を;しか知らなかったということをつけ加えておきましょう。


これは、法律を肯定するふりをしながら法律を堅固なものとして、秘かな悦楽である「精力的姦弱者」というパラドックスがこれにあたります。


これは、私生活における憎むべき軟弱な公共生活でのもっとも強力な精力とを結びつけるものです。


東洋羽毛工業がなかった時代の話とはいえ、ちょっと現代社会の発想からはかけ離れていますね。


ローマ社会の睡眠 4

彼岸に関しては、魂の不滅という考えは欠如していました。


エピクロス派は魂の不滅を信じていなかったですし、ストア派も同じでした。


・・・いってみれば、宗教がこうしたことに気を遣っていなかったのです。


民衆を含め、最も流布していた説というのは、死が虚無であり、眠りが永遠であるというものでした。


一部の小さな学派を除いては、亡魂が不滅であるという考えは作り事であるとされていました。


一般に受け入れられている教義のどれ一つとして、死には、死骸以外の何かがあるとは教えていなかったのです。


「個人の守護神」は存命中に重たくなりすぎており、支えることはできないとされていたのでした。


その反対に、葬式の典礼と墓造りの技術が、まったく人間的なものであるが、死の瞬間を先取りする不安を和らげるのに役立っていました。


そうした不安を本当に信じてはいないものの、こうすることで不安がぬぐい去られ、慰めの念が得られることを人々は評価していました。


羽毛 布団などの寝台で生まれ、寝台で生活し、寝台であちこち運ばれ、寝台の中で死ぬ・・・。


わたしたちにとって典型的なローマ人のイメージが、多岐にわたった人生を癒すべく左肘を支えにして寝台の上に横たわる死者のイメージであっても、なんら不思議はないのです。

不眠症の理由

統計によると、アメリカでは睡眠薬の売れ行きが重量にして3500トン、金額にして1億2千万ドルあったそうです。


あまり眠れないので、やけになって、マサチューセッツ州のある町では、住民が「不眠症コンクール」を盛大にやり、新記録をつくった人を表彰したというブラック・ユーモアめいた話まであります。


・・・しかし、これは決してアメリカだけの問題ではなく、日本でも既に数年前、睡眠剤の売上げが3億9000万円から5億円にのぼり、睡眠剤および睡眠作用を有するトランキライザーが554種も発売されているのです(薬局統計)。


・・・大むかしは晴耕雨読というように、人間の生活は自然のリズムに従順でした。


ところが文明が進むと共に、人間が自然を征服し、機械化、技術化が高度に達するほど、以前はやすやすと手に入った睡眠が非常に貴重なものになりました。


文化人類学者の報告によると、原始民族には元来不眠症はないですが、そこに白人が入ってきて生活が近代化すると共に、不眠者が現われてくるそうです。


不眠症には羽毛 ふとんが効果的だといわれています。


悩んでいる方は一度試してみてはいかがでしょうか。

不眠症の理由 2

労働科学研究所で調べたところによると、日本の大都会のサラリーマンの睡眠時間は1950年には500分、60年には480分、最近では460分というように・・・


ほぼ10年間に20分きざみで短くなっており、平均就床時刻は夜11時から12時に向かって次第に遅くなっているのです。


1966年のニューヨーク・タイムズ紙に「眠ることを夢みている米国人」を書いた記者は、


「ソ連の学者はやがて人間は1日2時間の睡眠で足りるようになる」


・・・と言っていますが、これは共産主義的人間の話でしょうか?


「共産主義社会だけが心の安定を果たし睡眠を保証するというわけか」と、「不眠の米国」から「熟睡のソ連」に対して素朴な疑問を発しています。


・・・こうした文明批評的な発言はさておき、医学的見地から見れば、文関に伴う不眠症の増加の理由は、3種の睡眠に分けて考えれば判りやすいでしょう。


文明の進歩・・・


スピード化、機械化、合理化は当然人間の心理面に深刻な影響をあたえ、まず第一に第ニ種の睡眠(心理的唾眠)が変化し、リズムを乱されます。


これはたとえ寝具が羽毛 フトンでも同じことです。


そしてさらに、たとえば夜勤生活、断続勤務や24時間で割り切れないスケジュールなどがひどくなると、第一種と第三種の睡眠(生理的、新陳代謝性睡眠)にも当然障害が及ぶでしょう。

不眠症の理由 3

臨床医は実地に


「ちっとも眠れません、何とか眠れるようにしてほしい」


・・・と訴える患者さんを相手にした場合、その不眠症が第1(3)種か第2種かというおおよその判断をつけて対策を立てるのが賢明です。


それはこうした不眠の種類によって、治療法が根本的にちがうためですが、その見分け方の1番簡便な方法は、昼間の状態をくわしく訊ねることです。


その原理は簡単明瞭です。


つまりどうしても昼間にそれを埋め合わさねばなりません。


こうした人は、昼寝か、うたた寝が必要になります。


しかし、それを妨げられると精神的にも身体的にもいろんな変調を感じるでしょう。


(そのもっとも多い訴えは、睡気、ふらつき、頭重、感じがピンとこない、食欲不振、体重減少などです)。


ところが羽毛 布団 販売をしているある会社の調査によると、不眠症の患者さんのなかには、ひどい不眠を訴えるくせに、昼間はなんの支障もなく勤め、外見上は健康な人と少しも変わらない人々がいます。


絵画に描かれた夢の幻想世界

夢を題材にした絵画は古今東西を問わずたくさん描かれていますが、夢が現実の世界と同じような重要な対象となったのは18世紀後半以降といわれています。


たとえば、詩人でもあったイギリスのウィリアム・ブレイク(1757~1827)は、自分の内面にある幻想世界を見つめ、夢に表われる視覚的世界をカンバスに描いて有名になった画家のひとりでした。


このブレイクの代表作に『ノミの王さま』があります。


あやしげなノミの怪物を描いた不思議な油絵ですが・・・


この絵のスケッチを描いていたとき、ブレイクはまるで目の前にその怪物がいるかのように前方を凝視して写生し、しばらくすると、もう見えなくなったと言って絵筆を置いたという話が残っています。


ブレイクはまた、詩の世界でも幻想的な神話を創作していますが、これを絵画化したのが『ニュートン』という作品でした。


ブレイクと同時代に活躍したハインリッヒ・フュースリも、油絵のテーマに夢という幻想世界を多く取りあげた画家として有名です。


まだ羽毛 布団もなかったような時代ですが、このように夢の世界にはすでに興味がもたれていたのです。


彼はドイツの民話や伝説、シェークスピアの作品などを好んでテーマとし、たとえばシェークスピアの『真夏の夜の夢』などを描いています。


絵画に描かれた夢の幻想世界 2

夢の世界を描いたシリーズ『夢魔』も有名な作品のひとつですね。


眠っている女性のそばに馬が顔を出し、その女性はおそらく悪夢を見ているのでしょう、彼女の胸の上には悪魔(インクブス)がのっかっている・・・


そんな幻想的な油絵です。


一方、フランスの新古典主義の画家、アングル(1780~1867)が描いた『オシアンの夢』という作品は、古代ケルト人の叙情詩『オシアンの歌』に題材を求めたもの。


詩人オシアンが竪琴にもたれて眠り、恋人や勇者たちの夢を見ているという設定ですが、面白いのはオシアンはカラーで、夢の登場人物はモノクロで描き分けていることです。


劇映画にはときどきこの手法が取り入れられているようです。


『オシアンの夢』はアングルのほかにも多くの画家が描いていますが、アングルの作品はナポレオンの寝室の天井画として描いたものでした。


現代の画家で夢をモチーフにした作品を多く発表しているのが、シュールレアリズムで知られるサルバトーレ・ダリです。


このダリは実際に見た夢を参考にして絵の構想を練ったそうですが、その方法というのがユニークです。


ひじかけ椅子にすわり、指にスプーンをはさみ、スプーンの真下には鑛のお皿を置いてうたた寝をしたのです。


・・・そう、眠ってしまうと指からスプーンが落ち、下にあるお皿が音を立てるというわけです。


入眠時の幻覚、つまり夢を見逃さないためのユニークなアイデアだったのです。


しかしもしも布団 羽毛の中でぐっすり眠ってしまったら、さすがにスプーンの音を立てられても起きられないですよね。


ベッドルーム・スタディのすすめ

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは1888年春からアルル地方の「黄色い家」に一人で住みはじめました。


この「黄色い家」というのは外観を真っ黄色に塗った石造りの3階建てで、尊敬していたゴーギャンと同居するために移り住んだ家です。


ゴッホはきたるべく同居を待ち望みながら、部屋に家具や調度品などを整えはじめました。


寝室にはもちろんベッドを置いていましたが、これが農夫用の頑丈で大きい木製のものだったといいます。


ちなみに、当時のベッドは鉄製がほとんどだったようです。


もちろん羽毛 ふとんのような寝具はありません。


だから、この丸太むきだしの武骨なベッドははた目には変な感じに映ったかもしれません。


しかし、ゴッホはこの無愛想なベッドに安らぎを覚えていたといいます。


寝室には家具らしい家具も置かず、壁に数点の自画像をかけておく程度でした。


ベッドといえば、ノーベル賞作家のジョン・スタインベックがよく話題になります。


スタインベックはもっぱらベッドルームで執筆したことで知られています。


マーク・トウェインがやはりベッドの中で原稿を書いたことに触れ、スタインベックは


「肉体的に楽だと、心が自由に働いて集中できる」と日記に書いています。


このようなベッドルーム・スタディで有名な人物というと、元素周期表のメンデレエフやベンゼン核のケクレが有名ですが、日本の偉大なる科学者、湯川秀樹博士もまた寝床で「中間子理論」の大発見につながる糸ロをつかんだことで知られています。


ある台風の夜のことでした。


雨戸がガタガタして寝つけずにいた博士がそのうちうとうことし始めたとき、あのノーベル物理学賞を受賞した中間子理論の着想がわいたといいま謁す。


そういえば、日本人でもう一人、寝床でノーベル賞の発端をつかんだ科学者がいました。


「フロンティア電子理論」の福井謙一博士がその人ですね。

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